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國分功一郎/「暇と退屈の倫理学」

思考の駆動力溢れる良書。特にハイデッガーの退屈論を参照した分析には思わず膝を打つものがあった。私自身がしばしば、この生を生きている切実さと同じくらいの強度で、この生からの乖離を覚えることがあるからだ。その際の表現としてしっくりくる箇所を引用する。 ここで私たちは、だだっ広い「広域」に置かれる。あらゆるものが退き、何一ついうことをきかない真っ白な空間に置かれる。 このゼロの状態は、しかし人間が自分達の可能性を知るチャンスでもある。 そしてこのような状況から再び実世間に戻りつつ新しい感覚をその都度立ち上げるのである。 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと不法侵入を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。例えば哲学とはそうして生まれた営みの一つだ。 結論としてまとめられているのは退屈の第二段階において思考を続け、生を賦活せよというシンプルなものであるが、論の全体に満ちる駆動力が減じることはなかった。 ハイデッガーの言う「ある種の退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している」ような感覚は、「何一ついうことをきかない真っ白な空間」における世界と人間の相互依存性の深度を信じ、互いを互いのうちに組み込み合うことで消え失せるのではないか。そしてそれが可能になった時、時間や距離も、それまでとは違う自由を獲得できるであろう。制作でそれを証明したい。

鈴木大拙「日本的霊性」より

精神または心を[物質]に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければ’ならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない。それでは人間はどうしても生きてゆくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであって二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が、相克し、相殺しないで、互譲し、交歓し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。いわば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直覚または自覚によりて可能になる。

asterisk 書評 大日方欣一

河原にしゃがみ込む少年がカメラアイに鋭く反応を返すショットを巻頭に置くこの燃焼度の高い作品集には、ところどころ、少年の瞳や頬、柔らかい腕、指先、匂いたつ体温や息する感触がよぎる。主題や被写体とするというよりも、相棒とする、分身となる—少年の日に寄り添い、ともに目の前の事象へ感受性を開いていこうとする。根本にはそういう態度の選択があって、このような重層的で伸びやかな光景群が生まれでてきたのではないか。きっぱりと作者は宣言する、「どこまでも具体的な事物に満ちた世界において、何かが存在するということ、そしてそれを成り立たせているものに触れる力を、写真は持っている」。「そこは、私たちの心が泳ぐことのできる自由な空間である」。古代ギリシャの原語で「小さい星」を意味したという表題の記号が、この本を眺め耽る私にはだんだん、ふわりと宙を舞い新しい季節の到来を知らせるしろばんば(雪虫と)オーヴァーラップしてくるのであった。 日本写真年鑑2018 発行 日本写真協会

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asterisk

このたび私にとって初めての写真集「asterisk」を制作しました。その出版記念に展覧会を開催します。会場では写真集を先行販売します。初日はオープニング・レセプションがあり、20日(金)には金村修氏をゲストに迎えてアーティストトークも行われます。会期中は終日在廊しています。みなさんどうぞお運びください。 会場 表参道画廊 会期 2017年10月16日(月)~21日(土) 12時~19時(最終日は17時閉廊) *オープニング・レセプション 10/16(月) 17:30~19:30 *アーティストトーク 金村修+森下大輔 10/20(金) 17:00~18:00 **入場無料 予約不要 *この展覧会は湊雅博氏ディレクションの連続個展「事象展」のひとつです。 書名「asterisk」 著者 森下大輔 発行 asterisk books 2017年10月31日発行 144ページ A4変形 226×283mm 作品掲載点数 モノクロ82点 発行 500部

映像 第一号

島尾伸三氏創刊、近藤耕人氏編集の評論誌「映像」の第一号に寄稿しました。 これまで大阪のポートギャラリーTより発行されていた「映像試論」を、トキ・アートスペースのトキさんがバトンタッチしてくださったそうです。見かけたら手にとってみてください。

飯沢耕太郎/現代日本写真アーカイブ

飯沢耕太郎/現代日本写真アーカイブ

飯沢耕太郎氏の新著「現代日本写真アーカイブ」に2011年の展示「名前のかたち」の展評が採録されています。 当時の作品が持っていたゴツゴツした手触りが、だんだんしなやかで輻輳的なものに変わってきているように思うこの頃。 森下大輔は1977年生まれ。2003年に東京綜合写真専門学校を卒業し、2005年からニコンサロン、コニカミノルタプラザなどでコンスタントに作品を発表してきた。だが初期の頃の、画面にパターン化された明快なフォルムの被写体を配置していく作品と比べると、今回の「名前のかたち」シリーズの印象は相当に変わってきている。 以前はブロイラー・スペースという名前で活動していたGallery RAVENの1階のスペースに11点、2階に12点展示された写真群は、白茶けたセピアがかった色調でプリントされており、その多くはピンぼけだったり、あまりにも断片的だったりして、何が写っているのか、何を写したいのかも判然としない。「名前のかたち」というタイトルにもかかわらず、それらは「名づけられたもの」を「名づけられないもの」あるいは「名づけようがないもの」へと転換し、再配置しようとする試みにも思える。 いくつかの写真には、彼自身のものらしい手の一部が写り込んでいる。だが、それがどこを、どのように指し示しているのかも曖昧模糊としている。それでも、逆に以前のきちんと整えられた画面構成にはなかった、写真によって世界を再構築しようという、止むに止まれぬ衝動が、より生々しく感じられるようになってきているのもたしかだ。今のところ、まだ中間報告的な段階に思えるが、この方向をさらに遠くまで推し進めていってもらいたいものだ。 2012/11/04 飯沢耕太郎 http://amzn.to/1JIOjTO

朝永振一郎「滞独日記」より

物を分析しないでぼんやりしたまま考えて、考えをすすめていくことがしてみたい。これはけしからぬ怠け心かしらぬが。物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な作りものだ。一度この作りものを通って、それからまた自然にもどるのが学問の本質そのものだろう。しかし、これでとらえられない面がものごとにはあるにちがいない。 活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。しかし、絵描きはもっと他の方法で運動をあらわしている。 吾々は物ごとを有限の概念にかたづけてでなければ物が考えられないくせがついてしまった。しかしこれは何といっても無理にかたづけたものであるから、本のものそのものではない。

清水あすか 雨見する。

清水あすか 雨見する。

「雨見する。」 道路に落ちた雨、雨一滴の中に生きている時間が見える風景だ。 干して小さく切った餅よ揚げて、おかき作ってくれ。それを持って、星から沖の波一番遠い指先まで行く。 一滴背中をまるくして、滴のまるさに近づいて年をとってくれ。時時には 飯を噛ませるさじよ振って、ことばと ことばが育つ厚ぼたいだんまりを交ぜてまた、 この小さい口に放り込んでくれ。 子ども。風景は途方もない、おびただしい記憶の方法そのものだ。 どんな織られ方をして滴の形は、濡れる花はこの花なのか、ひたすら見とれている わたしたちの死ぬる、忘れてしまうをも軽く上等な糸にして、今一滴は織られていないか。 わたしは子ども、おまえに放り込む飯、行こう星、さわる波の指触りも不思議。雨よ 雨、見とれるばっかり、おまえは行く背中、 滴、わたしが映る、さじなく。さじなく。 —————————————— 清水あすか「空の広場 14号」より