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風景の復習 倉石信乃

1 風景について思考するとなぜ躓くのか。なぜある型をなぞるような言説遂行の道 筋を択ぶことになるのか。そう自問するようになった。端的に言えば、もはや風景 という言葉を捨てよと気がつけば自らに命じている。しかし、風景論を通じてなけ なしの世界認識を育てられた経験が私にはあった。いまなお、風景写真に分類され るであろうあれこれを見て、好悪や快不快、さらには正否の判断へと、嫌々ながら にせよ習慣的な身振りもろとも思考は歩みを開始してしまう。こうして、とうが 立った風景論はまたもやその都度反復される。 ここで言っている風景論とは、風景批判の謂に他ならない。批判の一つは主に認 識論的批判というべきものであった。 《風景がいったん成立すると、その起源は忘れさられる。それは、はじめから外的 に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物なるものは、むしろ風景のな かで成立したのである。主観あるいは自己もまた同様である。主観(主体)・客観(客 体)という認識論的な場は、「風景」において成立したのである。つまりはじめから あるのではなく、「風景」のなかで派生してきたのだ。》(柄谷行人『日本近代文学 の起源』講談社、1980 年) 《それが風景であるかぎりにおいて、あらゆる風景は耐えがたく醜い。そして、風 景に瞳を向けることは、おしなべて恥しい身振りなのである。あらゆる視線は、習 得する視線にほかならないからだ。風景を讃美し風景を貶めるといった振舞いは、