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20190929

I decided to become a photographer at the age of 20 in the summer, so I dropped out of college

國分功一郎/「暇と退屈の倫理学」

思考の駆動力溢れる良書。特にハイデッガーの退屈論を参照した分析には思わず膝を打つものがあった。私自身がしばしば、この生を生きている切実さと同じくらいの強度で、この生からの乖離を覚えることがあるからだ。その際の表現としてしっくりくる箇所を引用する。 ここで私たちは、だだっ広い「広域」に置かれる。あらゆるものが退き、何一ついうことをきかない真っ白な空間に置かれる。 このゼロの状態は、しかし人間が自分達の可能性を知るチャンスでもある。 そしてこのような状況から再び実世間に戻りつつ新しい感覚をその都度立ち上げるのである。 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと不法侵入を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。例えば哲学とはそうして生まれた営みの一つだ。 結論としてまとめられているのは退屈の第二段階において思考を続け、生を賦活せよというシンプルなものであるが、論の全体に満ちる駆動力が減じることはなかった。 ハイデッガーの言う「ある種の退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している」ような感覚は、「何一ついうことをきかない真っ白な空間」における世界と人間の相互依存性の深度を信じ、互いを互いのうちに組み込み合うことで消え失せるのではないか。そしてそれが可能になった時、時間や距離も、それまでとは違う自由を獲得できるであろう。制作でそれを証明したい。

鈴木大拙「日本的霊性」より

精神または心を[物質]に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければ’ならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない。それでは人間はどうしても生きてゆくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであって二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が、相克し、相殺しないで、互譲し、交歓し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。いわば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直覚または自覚によりて可能になる。