國分功一郎/「暇と退屈の倫理学」

思考の駆動力溢れる良書。特にハイデッガーの退屈論を参照した分析には思わず膝を打つものがあった。私自身がしばしば、この生を生きている切実さと同じくらいの強度で、この生からの乖離を覚えることがあるからだ。その際の表現としてしっくりくる箇所を引用する。

ここで私たちは、だだっ広い「広域」に置かれる。あらゆるものが退き、何一ついうことをきかない真っ白な空間に置かれる。
このゼロの状態は、しかし人間が自分達の可能性を知るチャンスでもある。

そしてこのような状況から再び実世間に戻りつつ新しい感覚をその都度立ち上げるのである。

人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと不法侵入を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。例えば哲学とはそうして生まれた営みの一つだ。

結論としてまとめられているのは退屈の第二段階において思考を続け、生を賦活せよというシンプルなものであるが、論の全体に満ちる駆動力が減じることはなかった。

ハイデッガーの言う「ある種の退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している」ような感覚は、「何一ついうことをきかない真っ白な空間」における世界と人間の相互依存性の深度を信じ、互いを互いのうちに組み込み合うことで消え失せるのではないか。そしてそれが可能になった時、時間や距離も、それまでとは違う自由を獲得できるであろう。制作でそれを証明したい。