art

Artist talk
Osamu Kanemura & Daisuke Morishita
@Galerie Omotesando

金村修(以下K) よろしくお願いします。 森下大輔(以下M) よろしくお願いします。 K   写真家の金村です。 M   森下です。 K   おめでとうございます。 M   ありがとうございます。 何から話しましょうかね。 K   そうねえ。君の生い立ち、聞いてもしょうがないから。「君」なんて言っちゃいけないね。「先生」の生い立ちなんかね、聞いてもしょうがありませんから。 森下さんはね、僕の生徒だったんです。東京総合(写真専門学校)の時の。二年生の時の。 僕、彼が一年生だった時の写真、見たことあんだけど、もっとフォルムと言うんですか、縦の線がすごく強烈な強い写真で、割と印象は覚えているというか、その後二年生になって、その時もまだね、うーん、何かの影響がすごく強くて、束縛されてるなという感じはあったんだけど、ただフォルムと言うのかな、その物の強さというのは印象的だったんだけど、ある日、神戸の写真を撮って、それがすごく雰囲気がある写真だったんですよね。で、東京総合写真専門学校と言うのはリー・フリードランダーとかそういった写真の影響下だから、もっとフォルマティックなんですよ。だから画面からエモーショナルなものはもういらないみたいな学校だったんだけど、そんな中で割と珍しく構図と言うかね、そういう形の作り方ははっきりしてんだけど、だけどちょっとどっか違うものが入り込んできていると言うのかな。だからそれがすごく新鮮でね。だから割と学生さんに人気があったんじゃないですかね。彼はその後卒業して研究科に行ったんだけれど、その後一年生の生徒が上がってきたとき、みんな森下さんの真似と言うのかな、みんなと言うのは言い過ぎだけど、半分ぐらい真似していましたね。何が好きかって言うとね、先生と森下君のですと言うからね。偉くなったなあと思って。早一年でねえ。ただ、まあ、あそこは、ガチガチのフォルマリストの学校だから、どっかそういうエモーショナルな部分を求めるような人も多かったんでしょうね。で、そのあと研究科行って、すぐコニカで賞取って。

スライドショー

下記のイベントに現在編集中の写真集から37点を出品します。そういえば自作がスライドショーとして投影されるのははじめてだ。当日が楽しみ。 === 写真を眺めるスライドショー #2 企画:川島剛、西尾薫 === 作家の写真の作品のスライドショーを行い、いろいろな写真を眺める機会をつくりたいと思っています。ひとりでじっくり見ても、お酒を飲みながらでも、自分の好きな曲をヘッドホンで聴きながらでも、隣の人の会話を聞きながらでも、友人やその場に居合わせた人と話し合いながらでも歓迎です。ゆっくりできるスペースを設けますので、気ままにお過ごしください。 日時:7月2日(土)11:00〜17:00 場所:東京藝術大学上野キャンパス 大学会館 2F 和室 参加作家:五十嵐翔平、池崎一世、榎本千賀子、榮山剛士、大槻英世、大橋愛、小野寺南、金川晋吾 、岸幸太、倉谷卓、黒田菜月、小山陽子、佐久間元、隅石有覧、角田勝之助、難波健太、西澤諭志、秦雅則、原田晋、百頭たけし、フジモリメグミ、眞島竜男、三熊將嗣、三橋宏章、南方幹、森下大輔、山岸剛、渡邉曜 <アクセス> http://www.geidai.ac.jp/access/ueno http://ca-mp.blogspot.jp/2016/06/30camp.html?m=1

馬場まり子 展

馬場まり子 展

明日から馬場まり子展が始まる。 5年ほど前か、たまたま訪れた銀座のギャラリー巷房で初めてその作品に触れた時に、脳みその閂を一本抜かれるような、それまで味わったことのない感覚を覚えた。それから欠かさず展示に伺うが、毎回諸手を挙げて降参してしまう。今回も現物を見るのが楽しみだ。 藍画廊 5/9-21 (15休み)

浅見貴子「光合成」ART FRONT GALLERY / 馬場まり子 展 藍画廊

久しぶりにのんびり画廊をまわる。といっても目当ての展示は二つだけなので、あいまに撮影したとしてもすぐに終わってしまう道行きではあるけれど。前日に勤め先の会社を離れたせいか、暑くも寒くもない気持ちのいい日和のせいか、こそばゆいような浮遊感。あいかわらずお金はないけれど、どのようにでもかたちを変えることができる時間のなかで気持ちに余裕が生まれているのだろう、街の陰影や、車中の人々のふとした仕草にも興味関心が湧く。誰にでも心が遊んでいる時間は必要なのだ。 代官山の浅見の展示は、ここ数年の成果をつつがなく壁面に配置してあり安心感があった。しかしそこに描かれている木々の扱いに注意を払えば、それぞれの作品において具象性の水準を注意深く変化させているのがよくわかる。その場所で、その時の光に包まれてある目の前の木に、その都度対応して描くという真摯な態度に息が漏れる。私が惹かれたのは、木々の具象性と絵画としての具象性が拮抗するような作品だった。 居合わせた浅見さんに会釈して銀座の藍画廊へ移動。馬場まり子展。私はあまり他人の展示を見るほうではないので(数えたことがないのでよく分からないけれど、美術館やギャラリーへ足を運ぶのは、一年を通しておおよそ30回ほどではないだろうか)全体を語れるような立場ではないのだが、概ね作家はなにごとか伝えるべきこと、表現したいことをかたちにすべく作品を産み出し、見る側はそれを理解しようとする。程度の差こそあれ、そういった作業がうまくいくいかないということが問題となるわけだが、私の見ている範囲の狭さを差し引いたとしても馬場まり子はそういった”表現の首尾”をはかる規格の外にいる作家だとはっきり言える。毎回あいた口がふさがらないのだが、今回は特にそうだった。絵を見て、それを言語化する必要を感じないのだ。そうなんだよね、とか、うわ、とか、なんだこれ、とかつぶやきながら、眉を寄せたりニヤリとしたり、顎を突き出したり首を傾げたりする。それだけで心がほぐされて、生き返るようだ。 人が生きて、たくさんの時間の流れが結節し、変容し、像をなしつつ新しい関係を求めてゆく、そんな生々しい場所として馬場の作品はある。次回も楽しみだ。

さとう陽子展/ギャラリー檜

京橋のギャラリー檜。最終日。おチビを連れ立っての芸術鑑賞という無謀な道行きは果たして床の上で身をくねらせ駄々をこねつつおやつをねだり、折角在廊なさっているさとうさんとはろくな対話もできずに辞す羽目に。毎回こういう結果になるのに毎回そのことを忘れて出向くという愚かさ。 それでもどうにかみかん、きな粉飴を随時投下し、鎮めているあいだ集中して作品を観る。以前にも増して一点一点が独自の思想、顔を持ちはじめているが、大別するとリズムやパターンの律が織り込まれる音楽的な描法と、面のなかで起こる出来事の豊かさを追求するしかた、の二つに分けられる。 リズムやパターンを導入した作品は観る者に委ねられ、出来事のほうは作品の声に耳を澄まさなければいけない。普通とは逆だ。だから面白い。 今日見た私の眼には出来事の作品と、等分に差し挟まれる写真作品が愉快だった。 複数の要素が重なりあう愉悦というのはわりと定番で、これを手際よく為せばいいものができる。ポロックの成功した作品なんて四つほどの空間が同居していて驚いたものだった。今日見たさとうさんの作品は、個々の要素が相前後して重なるのでなく、布地のように織り込めあうのでもなく、ところどころで湧き出ては他に流れ込み、折りをみて浸透し、それがまた別の要素から別の仕方、例えば降る雨のように、例えばいきなり現れる石くれのように、なんというのか、大蛇が見える場所と見えない場所で絡み合っているようなことがおきていて、それが全体としては不思議な肯定感、なんのためにかはよくわからないがとにかく祝福を告げているという希有な出来事となっていた。すごい。 写真作品も初期こそ燦とした輝きがあったが、その後手管を知って停滞の中期、そこを脱して芯が形成されつつある。これなら写真だけの展覧会も可能だと感じた。ぜひ自分がその企画を成し遂げたいと思った。 おまけのおみやげは詩集。今回はきちんと製本されてあり、背表紙もある。さとうさんの抜き身の言葉が頭の角を突く。 精進せねば。さとうさん、ありがとうございました。