浅見貴子「光合成」ART FRONT GALLERY / 馬場まり子 展 藍画廊

久しぶりにのんびり画廊をまわる。といっても目当ての展示は二つだけなので、あいまに撮影したとしてもすぐに終わってしまう道行きではあるけれど。前日に勤め先の会社を離れたせいか、暑くも寒くもない気持ちのいい日和のせいか、こそばゆいような浮遊感。あいかわらずお金はないけれど、どのようにでもかたちを変えることができる時間のなかで気持ちに余裕が生まれているのだろう、街の陰影や、車中の人々のふとした仕草にも興味関心が湧く。誰にでも心が遊んでいる時間は必要なのだ。

代官山の浅見の展示は、ここ数年の成果をつつがなく壁面に配置してあり安心感があった。しかしそこに描かれている木々の扱いに注意を払えば、それぞれの作品において具象性の水準を注意深く変化させているのがよくわかる。その場所で、その時の光に包まれてある目の前の木に、その都度対応して描くという真摯な態度に息が漏れる。私が惹かれたのは、木々の具象性と絵画としての具象性が拮抗するような作品だった。

居合わせた浅見さんに会釈して銀座の藍画廊へ移動。馬場まり子展。私はあまり他人の展示を見るほうではないので(数えたことがないのでよく分からないけれど、美術館やギャラリーへ足を運ぶのは、一年を通しておおよそ30回ほどではないだろうか)全体を語れるような立場ではないのだが、概ね作家はなにごとか伝えるべきこと、表現したいことをかたちにすべく作品を産み出し、見る側はそれを理解しようとする。程度の差こそあれ、そういった作業がうまくいくいかないということが問題となるわけだが、私の見ている範囲の狭さを差し引いたとしても馬場まり子はそういった”表現の首尾”をはかる規格の外にいる作家だとはっきり言える。毎回あいた口がふさがらないのだが、今回は特にそうだった。絵を見て、それを言語化する必要を感じないのだ。そうなんだよね、とか、うわ、とか、なんだこれ、とかつぶやきながら、眉を寄せたりニヤリとしたり、顎を突き出したり首を傾げたりする。それだけで心がほぐされて、生き返るようだ。
人が生きて、たくさんの時間の流れが結節し、変容し、像をなしつつ新しい関係を求めてゆく、そんな生々しい場所として馬場の作品はある。次回も楽しみだ。

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