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馬場まり子 展

馬場まり子 展

明日から馬場まり子展が始まる。 5年ほど前か、たまたま訪れた銀座のギャラリー巷房で初めてその作品に触れた時に、脳みその閂を一本抜かれるような、それまで味わったことのない感覚を覚えた。それから欠かさず展示に伺うが、毎回諸手を挙げて降参してしまう。今回も現物を見るのが楽しみだ。 藍画廊 5/9-21 (15休み)

浅見貴子「光合成」ART FRONT GALLERY / 馬場まり子 展 藍画廊

久しぶりにのんびり画廊をまわる。といっても目当ての展示は二つだけなので、あいまに撮影したとしてもすぐに終わってしまう道行きではあるけれど。前日に勤め先の会社を離れたせいか、暑くも寒くもない気持ちのいい日和のせいか、こそばゆいような浮遊感。あいかわらずお金はないけれど、どのようにでもかたちを変えることができる時間のなかで気持ちに余裕が生まれているのだろう、街の陰影や、車中の人々のふとした仕草にも興味関心が湧く。誰にでも心が遊んでいる時間は必要なのだ。 代官山の浅見の展示は、ここ数年の成果をつつがなく壁面に配置してあり安心感があった。しかしそこに描かれている木々の扱いに注意を払えば、それぞれの作品において具象性の水準を注意深く変化させているのがよくわかる。その場所で、その時の光に包まれてある目の前の木に、その都度対応して描くという真摯な態度に息が漏れる。私が惹かれたのは、木々の具象性と絵画としての具象性が拮抗するような作品だった。 居合わせた浅見さんに会釈して銀座の藍画廊へ移動。馬場まり子展。私はあまり他人の展示を見るほうではないので(数えたことがないのでよく分からないけれど、美術館やギャラリーへ足を運ぶのは、一年を通しておおよそ30回ほどではないだろうか)全体を語れるような立場ではないのだが、概ね作家はなにごとか伝えるべきこと、表現したいことをかたちにすべく作品を産み出し、見る側はそれを理解しようとする。程度の差こそあれ、そういった作業がうまくいくいかないということが問題となるわけだが、私の見ている範囲の狭さを差し引いたとしても馬場まり子はそういった”表現の首尾”をはかる規格の外にいる作家だとはっきり言える。毎回あいた口がふさがらないのだが、今回は特にそうだった。絵を見て、それを言語化する必要を感じないのだ。そうなんだよね、とか、うわ、とか、なんだこれ、とかつぶやきながら、眉を寄せたりニヤリとしたり、顎を突き出したり首を傾げたりする。それだけで心がほぐされて、生き返るようだ。 人が生きて、たくさんの時間の流れが結節し、変容し、像をなしつつ新しい関係を求めてゆく、そんな生々しい場所として馬場の作品はある。次回も楽しみだ。

馬場まり子展 藍画廊

馬場まり子展 藍画廊

欲する質を強化する作家はそれを求める自分がいるから、まあ見つかるしいずれ出会える。だがその感性を複線化してくれる作家は非常に稀で、私にとって馬場まり子はそんな作家のひとりだ。 彼女の作品を前にすると、もしかしたら私が見ているこのどうしようもない現実が、もっと複雑かつ豊かな仕方で時間と空間を輻輳しているのでは、という可能性を発見してにやけてしまう。でもちょっと怖い。 怖い理由は、題材のひとつひとつが画家の個人的な記憶、発想に基づいているからで、ひょっとしたら目の前の絵にのたうつ時間や空間が自分のそれと繋がって、なにかしらの生々しいものが行き交うのではないかと恐れるから。でもそれは嬉しくもある。 自分という現実に寄り添いながら、こんなにも自由になれる馬場を尊敬する。 また次回の展示を心待ちにしています。馬場さん、ありがとうございました。 http://igallery.sakura.ne.jp/aiga548/aiga548.html

さとう陽子展/ギャラリー檜

京橋のギャラリー檜。最終日。おチビを連れ立っての芸術鑑賞という無謀な道行きは果たして床の上で身をくねらせ駄々をこねつつおやつをねだり、折角在廊なさっているさとうさんとはろくな対話もできずに辞す羽目に。毎回こういう結果になるのに毎回そのことを忘れて出向くという愚かさ。 それでもどうにかみかん、きな粉飴を随時投下し、鎮めているあいだ集中して作品を観る。以前にも増して一点一点が独自の思想、顔を持ちはじめているが、大別するとリズムやパターンの律が織り込まれる音楽的な描法と、面のなかで起こる出来事の豊かさを追求するしかた、の二つに分けられる。 リズムやパターンを導入した作品は観る者に委ねられ、出来事のほうは作品の声に耳を澄まさなければいけない。普通とは逆だ。だから面白い。 今日見た私の眼には出来事の作品と、等分に差し挟まれる写真作品が愉快だった。 複数の要素が重なりあう愉悦というのはわりと定番で、これを手際よく為せばいいものができる。ポロックの成功した作品なんて四つほどの空間が同居していて驚いたものだった。今日見たさとうさんの作品は、個々の要素が相前後して重なるのでなく、布地のように織り込めあうのでもなく、ところどころで湧き出ては他に流れ込み、折りをみて浸透し、それがまた別の要素から別の仕方、例えば降る雨のように、例えばいきなり現れる石くれのように、なんというのか、大蛇が見える場所と見えない場所で絡み合っているようなことがおきていて、それが全体としては不思議な肯定感、なんのためにかはよくわからないがとにかく祝福を告げているという希有な出来事となっていた。すごい。 写真作品も初期こそ燦とした輝きがあったが、その後手管を知って停滞の中期、そこを脱して芯が形成されつつある。これなら写真だけの展覧会も可能だと感じた。ぜひ自分がその企画を成し遂げたいと思った。 おまけのおみやげは詩集。今回はきちんと製本されてあり、背表紙もある。さとうさんの抜き身の言葉が頭の角を突く。 精進せねば。さとうさん、ありがとうございました。