aside

長野重一

二十代でフォトプレミオのグランプリをいただけたのは、長野さんが審査員だったからだろうと勝手に思っている。写真家として歩み始めたばかりの時期に背中を押してくださった。深く感謝しています。長野さんの伸びやかな視線を少しでも引き継げるよう、制作を続けてゆきます。

馬場まり子展@藍画廊

好みの作品を目にするたびに「お、いいな」とは思う。 しかし、好悪や優劣、価値評価と無関係な「うお」はなかなかない。 馬場まり子の絵は、私が知っている世界とまったく異なる世界があるということを軽やかに、圧倒的に知らしめてくれる。 彼女の作品を前にするたびいつも、空に放り投げられてしまうよな感覚を覚える。

FUJICA GM670

写真を生むにあたりただ実直に撮れれば何を使おうが関係ないとは思うが、自身の制作機材にこだわらないかというとそうでもなく、いくつかポイントがある。ただ見たままを撮りたいので右目左目に関わらずファインダーを覗く際肉眼と同じ画角である、つまり逆の目を開けても違和感のないのがいい。そしてファインダーの周りに余計な情報がないこと。そうでないと煩わしさが先に立ちいらいらしてしまう。露出等、絵作りにまつわる助言は無用だからだ。 だがそんなことを言っているうちに使える機材がみるみる減り、私のフォーマットではPENTAX67Ⅱに露出計抜きのプリズムを載せ標準近辺のレンズを付ける、若しくはFUJICA GM670の100mmを常用するしかなくなった。いくらこだわりが強くとも、社会的方向性の曖昧な欲望が外的要因で制限されるのは当然とはいえ悲しい。覚醒しているときはPentax100mm,Macroを、現実に柔らかく擦り寄るような気分の時はDallmeyerを、そんな自分に疲れたらFUJICAを担いでいい加減にシャッターを落とす。なんにしても自分のやり方で写真が撮れればなんでもいい。ほとんどのことに興味がない。

20161221

作品と作家本人の距離が近づいていることに興奮しつつ、そのことをいくらか危ういと感じている。このごろはなんだか忙しくぼうっとする時間が減り、自分が本当に求めていることへの隔てを埋めるための取材、そこに費やされるべき言葉の量がなかなか足りない。だが幸いにも新しいものの生まれる兆しもあり、そんな時は生きていてよかったと思う。これからも、できることなら一点一点の作品が私の感情や意識と協働してほしい。

正し

二十代から三十代の前半まで、写真における正しさが正義だと思ってた。 だってそれは私にとって正しいから。作りつづければいい。簡単だ。 作品はずっと作っている。 でもある時に自分自身の生活がいわゆる正しさから外れていると言われて、 そういうことにまったく関心がないことに気がついた。 知らずに誰かを傷つけた、心ふるえる喜び、とっさの共感に肌が粟立った、この肉を食いちぎりたい、死ぬほど恥ずかしいこと、自分が消える快感。 それらはすべて、こうでなければならないという考えかたとは違うしかたで、私から発動している。そこには正しさなんて微塵もない。 顔がからだをおいてゆく。  

アァ

ふと、時間と折り合いをつけたくないと思ったら、具体的なことを連ねるしかなく、でも具体的な事象に全く興味を持てないので、活動しながら死ぬ。死に昂奮しながらその顔に納得する。整わない爪。骨だけでは踊れない。血と肉で踊れ。アァ。

手を見ればたわいない赤い色。 恋する人の手を握れる幸せ、が 目を見つめて心を伝えれろ 遠くやついではないの

時間の色

その時。差し迫った個展の材料を用立てようと、原付で最寄りの駅へ向かっていた。何度も行き来した道のりをゆく頭は平板でとりとめがない。図書館前のゆるい坂道をぼんやり上っていると、前の自動車が妙なタイミングで停車した。危ないな、と訝う目先の電柱が大げさに揺れる。足元の地面が波打つ感覚をはじめて味わう。それでも、すこしいつもより大きかったなと思うだけでふたたび進みはじめる。感覚が鈍って大きな危険を察することができない。もしくは感じ取らないようになっている。揺れはなお続いて、右から左から不安げな顔で道路に飛び出てくる人たち。それを縫って駅へとたどり着くが停電しており暗く、電車の運行掲示板も死んでいる。間歇的に揺れる陸橋を横目に電車が動き出すのをしばらく待ったが、運転再開のめどが立たないというアナウンスを聞いて踵をかえした。周辺の店舗からも照明が消えてひっそりとしていた。 家に戻ってテレビを見ると、津波が平地を進んでいた。上空のヘリコプターからの画像。時折火が出る。水に襲われているのになんで火が出るのだろう。あ、人が。飛沫の先に車列があるけれど。一緒に見ていた家人が涙を流し「ああ」と叫ぶ。でもまだ追いつかない。そんなに感情的になるなよという眉根のゆがみが先に出た。どれくらいの人が亡くなるのだろうという呟きに「数万ということはないでしょう。数千でしょう。」と私は言った。これから失われる命、すでに失われた命のひとつひとつについて想像することができない軽率さ、愚かさ。 しばらく伝えられるかぎりにおいて家人が原発の行方を追っていた。2、3日は様子を見ていたが深夜に状況が悪化、早朝のニュースに映る東電担当者の顔色が黒ずんでおりこれはまずい、と慌てて西行きの新幹線へ。物事は”良い方向”へ向かうのだろうというおぼこさは潰え、その瞬間から時間の色が変わってしまった。 目の前にある具体的な事物に普遍性を見出すために制作を続けてきた。電線の束、木々の影、ガラスのヒビ、水面の文様、モルタルの肌理、隣人の指先、顔、月、皺、雲、そんなあたりまえの存在をいちいち美しいと思う。だが、あたりまえの存在を愛すにはまず、平和でなくてはならない。 私はずっと守られた場所にいて、安心の中で育ち、生きてきた。なぜそれが可能であったかということに向き合わないできた。平和を享受するには資格が必要だなんて考えたことがなかった。写真の純粋性を追い求めるという、ある意味遊びに近い活動に手持ちの時間や労力のほとんどを注ぎ込めるという幸福。その土台となっていた平時。その前にあった戦時。きな臭さが増す昨今、戦争のあったころまで自分の想像の範囲をのばさなくてはいけないと切実に思うようになった。 祖父は戦中飛行機乗りで、死ぬ間際に見舞ったとき、当時の訓練で橋の下を飛行機でくぐったという話を突然してくれた。捕虜を処刑する時は、誰が殺したかわからないように皆で一斉に撃った。敗戦の直前、大陸から逃げる上官を飛行機で運んだ。足がつかないようにか行き先は告げられず、ただまっすぐ飛べと命ぜられ、覚醒剤を打たれながら何度も往復した。利用価値のある兵士だったから生き延びられたのだろう。一緒だった母も、戦争の話なんてまったく聞いたことがなかったのにと驚いていた。それがつい数十年前のこと。たった二世代しか経っていない。 国のかたちを変え、ふたたび戦時を招きよせようとする者がいることに強い怒りを覚える。 時間は単線的に進むものではない。これまで積み重ねられてきた時間と、今を生きる人の生み出す時間が織り成す実体なのだ。それをひとつの色に染めることは決してできない。

雪が降ると視線が惑う。名指すものが少なくなるからだ。結露した窓が白く光り、人の身振りが気にかかる。焦点距離を定めない遊びを素面でできるから、カメラを取り出す手が億劫になる。これならこれでいいかとも思う。ものを生み出すとはなんだろうか。静かなことだろうか、怒りのようなものなのか、否定することでもあるかもしれないけれど、ただ肯定することでもないのだろう。ただあること、もしくはそうでないこと。明日には消える雪がきっと路面を滑りやすくしている。バイクで転ばないように気をつけなくては。