text

Shadows of Light text#2

場所と空間から手を離すとき、そこに豊潤な空白が現れる。 何をもってしても満たされることのないこの空白を、私の伴走者としよう。 空白と踊る。新しい空間を発見するために。   When you stop grasping place and space, rich emptiness appears. I would like to live with

Shadows of Light text#1

これまで一貫して写真の純粋性を信じ、写真を通じた事物の存在証明をテーマに作品を制作してきたが、最近の個人的な喪失体験から「光は事物と溶け合い、影を生み出すが、光そのものを照らし出すことはできない」というかねてよりの欠損感をさらに強め「たえず失われてゆく」存在を作品に留めたいとの願いを新たにし、それを近作にまとめた。私にとって身を切るような光景も、写真になってしまえばどこまでも普遍的な光の影に満たされていた。救いなどないという空白に救われたように思う。

asterism

全天を仰いでも星しか見えない。 だが星と星のあいだに目を凝らし、そこに新たな光とともにある闇を察知するとき「なぜこのようであるか」という問いは消える。 私たちは偶然を求めている。 それ自体では永続する資格を持たないものが「祝福」としてそのような資格を身につけてゆくことを期待している。 自分の心や体の一部を、知らない誰かに明け渡すという快楽とともに。 そこでは何も得ることができないかもしれないし、何かを失うことさえできないのかもしれない。 全天を寿ぐ仕方を探りつつ、星と星の間にある茫漠たる距離に寄り添い続けること。星座などどこにもない。

“asterisk” text #1

 Light is always certain, revealing itself when it touches and mingles with objects. A lens captures its form and reproduces

その日のうちに

知らない土地の列車に揺られていた。海沿いをゆく単線だ。平日の通勤時間帯にもかかわらずぽつりぽつりと空席があり、都会のそれとはずいぶん趣きが違う。乗客も気持ちに余裕があるのか一様にのんびりしていて、知らぬうちにこちらの気分まで緩んでしまう。準急も快特もない各駅停車のみの路線だからめいめいの駅で人が乗ってくるが混み合うほどではない。対向車両とすれ違うタイミングをはかるために駅で停車すると、静かな波の音がエンジン音の向こうから聞こえてくる。 撮影行ということでカメラを手にしてはいるが、目はただ事物を消費するためにあるのではないと開き直り、特に被写体を探そうともせず、古びた座席にぼんやりと腰掛けていた。まだ見ぬ撮影対象を血眼で探していた20代の頃のことを思うと、初めての景色に好奇心を抱かないというのはいささか問題があるようだが、その理由には心当たりがあった。 ちょうどその土地へ渡る直前、思い立って過去の作品の整理に手をつけた。数万カットのネガを光に透かしながら無用なカットをひたすら棄てていくという、当時の自分を裏切るようないささか気の重い作業を、すべてを持ち越すことなどできないのだと割り切って進めていった。ファイルの嵩はどんどん減り、気がつけば足下のゴミ袋には、ゆくあてのない風景が掃き集められた落ち葉のように雑然と高く積み上げられていた。なるべく感傷的にならないように気をつけてはいたが、そうやって一枚一枚のネガを閲していると、当時の熱量が図らずも蘇ってくる。 スタートもゴールも曖昧なまま、ひたすら知らない街へ出向いてはあてずっぽうに歩きまわり、大量に撮影する。部屋に戻ったら窓にダークカーテンを巡らして現像し、徹夜もいとわずプリントする。作業途中、現像液もそのままに仮眠のつもりで横になると、疲労に飲み込まれて気絶するように眠りこけてしまうこともしょっちゅうだった。 この時期の写真群はただ写真を作るということが第一の目的になっているので、そこに要不要の判断を持ち込もうとすると、自分の中でだんだん混乱が生じ、なにが良い写真で、どれが駄目な写真なのか分からなくなってしまう。ゴミ袋の中の膨大な風景を前に、これはいったいなんだ、なんのための行為だったんだ、と考え込んでしまった。 きっと写真依存症だったのだろう。本人はなんのために、という疑問を置き去りにして写真を撮り続けているのだから、当時の自分に疑義を問うても詮ないことなのだが、写真が生成するサイクルと生活サイクルのあいだに少し距離ができつつあるこの頃の自分を省みると、写真と一緒に転がり続けていたあの頃に味わっていた飢餓感や狂おしさが懐かしい。そしていつからか、その狂おしさを我が身に含みこむようになり、それまでとは別の仕方で対象を捉えるようになってきたことに思い至った。 窓外の景色にほとんど興味を失い、徐々にものを思うことが少なくなり、感覚が澄んでゆく。瞳孔がくっきり開いたような気がしてふと窓の向こうへ目をやれば、内海のせいか波が穏やかで、トプン、トプン、という音に触れることができるようだ。遠くの山や、隣りに座る人の整髪料の匂い、車内アナウンス、自分の首の軋み、まわりのどれもが確かにそこにあるにもかかわらず不確かになっていく、そんな緩んだ意識に揺られながら、やはり変わってきているなと確信する。 どうやら自分の中のある領域を明け渡しているようだ。このようである、という戦慄するような静けさが、私がある、という感覚と寄り添いはじめている。これまでいつも、現実に遅れをとっているように思われて焦燥感に駆られ、無闇にエンジンの回転数を上げて空回り、なんてことの繰り返しだったので、あたかも自分が透明になってしまったかのような現実との距離感がとても不思議で、貴重なものに感じられる。 そんな感覚の変化がどこか他人事のようで戸惑っている最中に、終着駅のアナウンスを聞いた。列車の速度が落ちて乗客が三々五々降車の支度を始めると急に現実へ引き戻される。そして駅に着けばまたいつものように、スタートもゴールもない撮影のためだけの歩行がはじまる。でも、以前とは対象に求めるものが違ってきている。ずっと確信だけを求めていた体が、シャッターを落とした瞬間に向こうから返ってくる違和に耳を澄ますようになってきている。 なにはともあれまずは高見だ。坂を上って港を見渡し、谷戸へ下る。地元の方に話しかけられる。戦争の話。墓地では所縁ある墓を案内される。数十年前のこと。古い遺跡を訪れると説明を受ける。数百年前のこと。めいめいの場所で写真を撮ったり撮らなかったりしつつ、垂直方向の時間の中を渡りながら、私も被写体もただそこにあるという瞬間を重ねていく。あの尾根の向こうでは原爆が炸裂したそうな。 ずっと、制作における被写体のテーマを設定せずに、ただ写真を作ることを目指して繰り返し写真を撮り続けてきた。その折々に心がけているのは、目の筋肉を鍛えること。理論やスタイルに頼らずとも写真で写真を構築する力を養うことだ。そのせいだろうか、時折行きずりの人に「なにを撮っているんですか?」と尋ねられるとつい「写真を撮っています」と返してしまう。考えてみればおかしなやりとりだが、こちらとしては他に答えようがない。まったくバカには写真は撮れないけれど、バカにならないと写真は撮れないな、と尾根を伝いながら思う。 何時間も行き当たりばったりに歩きまわった末、谷戸を川沿いに抜け、海へ出る。もう足が痛い。頭の奥が痛んで何も考えられない。斜陽のなか少し粘るが、疲れてくると途端に写真も駄目になる。諦めて駅へ帰る。ホームでビールを呷ってから乗り込む帰りの車中、身も心も気怠い現実にすっかり支配されて、暗くなってゆく海を眺め続けた。まるで全身が一枚のレンズになったかのような海だ。 ずっと旅は嫌いだったが、これだけ意識を更新する契機となるのなら、もっと積極的に出るべきかもしれない。 様々な技術が試されて、様々な商売が繰り広げられる。目新しいものに驚いたり、繰り返されるスタイルに意味を見出したりする。そんなサイクルの中では、いつもなにかしらの意味や価値を消費することが求められている。しかし写真にはそうでない道もある。 役に立たなくてもいい。うまく意味を見出せなくてもいい。我々がまず第一にすべきは意志を示すことだ。このようであるという事実に寄り添い、ここではない場所へ導こうとする意志を。限定された時間のなかで、無限に広がる世界を相手に、写真という人工的な手段を用いて意識と身体性を拡張し、そこに意志や理想を体現するという不可能性に賭けるのだ。  

テクスト「歌」

風景の中で、言葉が呼吸をしている。 言葉はただ、呼吸を繰り返し、そのリズムに従っている。 そしていつしかそれを忘れて、リズムそのものになった時、言葉は消え、歌になる。 風景の中で、歌が歌を歌っている。   歌は 存在を吸い上げ、 時間を織り込み、 空間を重ねあわせることで、 知っているものと知らないものとを繋げてゆく。   だが、ふと呼吸のリズムを思い出した時、 白が底なく白く映えて、思わず笑ってしまう。歌が沈黙に満ちていたからだ。 満たされないということに同意してはじめて、目が見えるようになるというのに。

人や事物、場所や景色、光や影が、明らかに現前している。それらが同一でなく別個でもないという矛盾。それは歌のようなものだ。

テクスト 「太陽がひろう」

光は事物と混じりあい、みずからが濁ることでその姿をあらわす。真実と現実が重なりあう美しさに惹かれ、あちこちでひろいあつめた。太陽をひろうつもりで。 しかしいつのまにか、私は太陽にひろわれる側にいた。光を受け取り、それを誰かに手渡す立場にいた。 私たちに太陽をひろうことなどできない。光は理解して消費するための道具としてでなく、承諾の技法として私たちに与えられているのだ。 いつもまん丸な太陽のもとにあって、事物の満ち欠けに心がゆれる。それを祝福したい。