個展が跳ねて以来10日ぶりで、ひとりの時間が訪れた。いつも足下にくっついている小さな重石がおらず妙に身が軽く感じられる。しかしフラフラした頼りない足取りも、願ってもないほど澄んだ陽光に晒されて、だんだんリズムが整ってゆく。
ここ一年は東京に飽き、ずっと三浦や横須賀を取材していたが、関東を離れるとなると急に淋しさが募るのだから現金だ。記憶の蒸し返しを口実に、東京と横浜を撮り進める冬になる。
田端へは京浜東北線で一本だ。うっかり乗り過ごして一駅先の上中里で下車。しばらく撮影に出ていなかったので、リュックサックからカメラを取り出して構えるという慣れ親しんだはずの仕草に軽い違和感がある。撮影を開始しても、なんで歩いて探して撮るのか、ちょっとのあいだよく意味がわからない。意味や理由がない行為に自己資本をすべて投下するといういささか幼い特権意識も薄れつつあるようだ。そのぶん理想のかたちはくっきりしてきたのだが。
それでも移動を続けていれば、視覚が滾るような場所につぎつぎ出会う。そのたびに被写体が孕む意味の重さを想像し、各要素があるべき場所に配置する。体を捻って意に適う角度を検証するが、被写体が魅力的であればあるほど確証を持てずにカット数が嵩む。だんだん体温が上がり、カメラの裏蓋が呼気に濡れる。フィルムを交換して飽きるまで撮り続ける。ふうっと息をぬいてそこを離れる時には、自分が求めるものの意味や理由がそのまま腑に落ちている。
3時間ほど撮影。東尾久のOGUMAGにたどり着いたときには日も傾き、陰に浸された平坦な街に明るい場所を見つけるのは難しくなっていた。最後まで照度の落ちない日差しに感謝。PENTAX67Ⅱ summar 12cm. efke R25 6本. また撮影が始まった。新しい作品と出会うのが楽しみだ。光の奇麗な季節ということもあり、67ではしばらく「太陽がひろう」を拡充する作業が続きそうだ。
関口正夫さんの作品をきちんと見たのははじめて。印象は、「小説家が読む小説」。
写真家が見る写真、といってもなんのことかよくわからないかもしれない。
ある程度キャリアを積んだ写真家なら、自作の成り立ちや先行きについておおよそ目ぼしはつく。被写体を検すれば、出来上がりがすでに頭のなかに浮かんでいるということだ。この居着きに近い状況と正対したとき、予測が難しい状況を設定する/深く掘り下げる/別の仕事をはじめる、という三つの道がある。知らないふりをして続けるというのもあるが、それは道ではない。
関口さんは一つの路線を走り続けると轍が深くなってしまうことをよく知っていて、この三つの道を軽やかに車線変更しながら進んでいる。車線変更自体を楽しんでいるのだろう、ハンドルさばきもギアチェンジも無駄な力が入っていないから、なんだか簡単そうにみえる。
別の喩えで言えば、何度も足を運びたくなる定食屋のような魅力、と言ったら失礼だろうか。実際、もし展示が近所だったらもういちど見に行ってみたいと感じている。いつも即断を旨に他人の展示を評することを心がけているが、こんなことは滅多にない。
”写真”を”作品”にしなくては落ち着かない多くの写真家が、関口さんの写真を見てふっと自由な気持ちになる。ありそうなことで、僕もそのひとりになった。
関口正夫 写真展 「こと 2010-2012」 11月13日(火)- 11月25日(日) OGU MAG