祖母が倒れたと聞き慌てて帰郷。最初見舞った時には意識もなく呼吸器でかろうじて息をつないでいたが、翌日にはこちらの呼びかけに応えてうっすら目を開け、手を握り返してくれる。日を追うごとに反応が顕著になっているようで、その生命力に感服。 見舞いの合間に地元を散歩した。愛をもって。知っていたようで知らないことばかり。破れた今日が目。レンズ片手に最初は流すつもり。ジー、ジジ。去ってゆく。存在に対する答え、スタイルはない。
写真をやっていてもたらされる快感のひとつに、写真的な空間の構築がある。 写真なんだから、そこにあるものがただ再現されるのは当たり前。それ以上でもそれ以下でもない、かというとそうでもなく、 あくまで現実を参照しながら、現実自体の可能性を問い続けることができる。「ただそこにあるものを相手にする」ということを本気でする。
個々のカットに新しい”見え”をもたらす。「そこにはなにもない」けれど「ここにはすべてがある」と証立てる。編集の段階でも写真が連鎖反応し時系列のたがが外れてゆく。それぞれの段階を行きつ戻りつしながら複合的に快感の経路が形成されてゆく。そして最終的に出来上がるものは輝きに満ちたものにあるかというと・・それは具体的な情報を湛えた何かでしかない。しかしそこにたどり着き、その場所を含み込んだ上でさらなる生成を続ける。そんな一つの機関としての写真家。