実家暗室。関東に暗室を確保できず生家の一室を作業場にしている。
今回の作業は近作のワークプリントを作るのが目的なので展示前に駆け込むような慌ただしさもなく一枚一枚の上がりをゆっくり確かめる余裕があって、それほど厳密にトーンを追求せずネガを選ぶことができるから、伸ばし機に挟んだネガを光源に晒して惑ったり、現像液を揺らす手先でここしばらく確かに思われていたカットの価値をあやふやにしたりする愉しみを味わえた。おなじような道を逆に辿るようなことだが、モニタの段階ではばたついていたイメージが紙へ乗ってやっと腹に落ち、その一点からのびのびと生きはじめることは少なからずありその度に、制作には遊びが必要だなとあらためて思った。
不覚なのは暗室に入る頻度が落ち目が弱くなっていること。画像を消費する身振りに任せてモニタでトーンを操作した印象が強く、現像液から浮かび上がる像の静かな移ろいを頼りなく感じてしまう。目の弱さを背負うべく作品の性格に応じて手段を使い分けることも考えはじめた。
鑑賞する立場から言えば、銀塩と出力の差は目を凝らすかどうかの違いで、距離を置いて画像の意味を理解するのであれば出力に分があるが、さらに一歩踏み込んでも説得力があるのは銀塩。その説得力を必要とするかしないかの差。簡単な差。
紙はFotokemika.Emaks の2、3、4号を適否を問わず使う。普段はイルフォードの多階調とZONE Ⅵのヘッドだが今回は手持ちの号数紙で済ませた。生産が止まった製品に対する醒め。リスプリントが持続可能であればまた違ったのだが。
現像液はすべてeco-pro. 銀塩モノクロプリントをする友人にはいつもこのメーカーのNewtral Fixerを勧めている。他はともかく定着液だけは硬膜剤を使用しないこれがいい。体への負担が少なく水洗効率も高い。
フェリシアン化カリウムでさっと白を飛ばし、仕上げの水洗促進液にKodakのセレニウムトナーを少々含ませて黒を引き締めるが、もともと銀塩のトーンを盲信するタイプではないのでほとんどおまじないのようなもの。
あいまに頼んだ薬品の配達が遅れ久しぶりに集中して小説を読むことができた。自主ギャラリー関連で動物的になっていた頭を糺すことができ、時間を愛すること、自分に素直になることの大切さを思い出す。無理なら無理。やりたいようにやる。
ずっと興味があるのは、写真が切り取る現実と写真自体が生み出す現実が混ぜ合わさる場所を構築する作業。対象の再現から生まれる写真が、フィクションの領域に片足を突っ込みつつ、自身の佇まいを持つようになる過程。一見ぐらぐらしていて頼りないが、美しさってそういうものだ。今回ものになるのは5カットほど。豊作。