ストラヴェーナと一緒に、田舎で映画を観ながら週末を過ごすのを常としています。観るのはたいてい古い映画。二人して「アマルコンド(フェリーニ/1973)」であるとか、アンドレイ・タルコフスキーの映画を繰り返し何度も観ました。こういった映画を暗記してしまうほどに。われわれは映画がはらんでいる芸術性を、気づくことすらせずいかに易々と取り逃がしてしまうことか。「ストーカー(タルコフスキー/1973)」でアレクサンドル・カイダノフスキーが泣いている場面を目にすれば、すぐさまどれほど高い水準で同場面が作り上げられているかわかります。ロシアであれアメリカであれ、現代映画でこの水準に到達し得ているものはありません。映画は本を読むのに飽いた人々のためにあるものに成り果ててしまった。そのため、本に書かれている内容を俳優が物語ってくれるかたちになってしまっている。こうした傾向は、芸術家たちにも決定的な影響をおよぼしました。だからわたしは、もう現代映画をほとんど観なくなったのです。イングマル・ベルイマン、黒澤明、「フェリーニのローマ」、オタール・イオセリアーニ、キラ・ムラトーワの映画を見ているととても幸福な気持ちになるし、時には若手監督の作品を観た時にも同じような気分になることがあります。
俳優に関して言えば、役割にふさわしい人を見つけるのがますます難しくなってきているし、ようやく見つけるのに成功したとしても、「おい、恥ずかしくないのか⁉︎ 懸命になって仕事をし、演技に打ち込むんじゃなくて、君は単に人に気に入られようとしているだけだ。そんな仕事ぶりをして申し訳ないと思いたまえ。そして即刻やり方を変えるんだ!」などとはなかなか言えない。映画は神聖な芸術なのですが、今や両手で自らの虚ろな目を始終覆っている怠惰な人間の巣窟になってしまった。
わたしの映画「神々のたそがれ」のなかには、空を飛ぼうとしている役を演じる背が低くて太った俳優が登場します − 彼は素晴らしい俳優です。王の役を演じた男は、地方の小さな児童向け劇団の俳優です。同時に彼は、首都にあるどんな劇場に出たって輝かしい演技を披露することができたでしょう。アレクサンドル・チュトゥコに注目してください − 彼のことを初めて目にした瞬間に、思わずこう言いました。この男にしよう、彼なら完璧なドン・レバを演じることができるであろう、と。
けれども何より問題なのは、賢くて教養のある観客がどんどん稀な存在になってきていて、見つけだすのがとても困難になっていることです。
「神々のたそがれ」 解説 遠藤純生 より