2006年度コニカミノルタ「フォト・プレミオ」年度賞の大賞を受賞された森下大輔の展覧会を見る。同じ期間、少し歩いたところにある新宿眼科画廊でも新作を発表する展覧会が開かれていた。新作とあるが、森下はホームページでも作品を少しずつ発表しており、見たことがあるという記憶はありつつも、展示をするとまた違う様相を見せる。
森下の画像は、三次元を平面に押し込むという写真のメディアとしての特性、写真行為において用いられる物質の特性、フィルム、レンズ、印画紙の特性、そして撮影をする対象が十分把握されているものと言える。また、展示においても、森下が示した画像の感覚を見る側へ経験させるようになっており、平面を見るという写真の基点を改めて考えさせられる。その隅々までに目配りがされた作品の前に立つと、森下の企図が画面全体に漲っていて、こちらも慎重に見なければという思いになる。
コニカミノルタの展示会場に入るとすぐ、鬱蒼とした木立で撮影されたプリントがある。生い茂っている木々から、芝生を隔てて、画面の中央にある木を見ている。あるいは、芝生のある広場を見ているのだが、二本の木がその広場から撮影する側を隔てている。数本の木があり、明るい方を見ていると言えばいいだろうか、どちらを見る位置の基点にするかによって、画像が二様に見えてくる。目の前にあるのは平面の写真なのだが、その黒白の配置が平面的に組み合わされ、レイヤーの重なりのように見えてくる。それを頼りに三次元的にこちら、向こうという見方をするが、改めて見れば、それはそっけない平面にすぎない。
また、森下が2006年9月にも、そして今回の展覧会でもはがきの案内に使った画像がある。二本の高架橋の下に立ち、平行で直線の高架橋の向こうを見ている。その高架橋の橋脚は規則的に並べられている。高架橋はほんのわずかだが離れているため、高架橋の上をわずかにうかがい知ることができる。ただ、そこからは光線が高架橋の内部、つまり撮影する森下へ差し込んでいるのだが、それはわずかに傾げている。このように三次元を想像して説明すると単純な構造なのだが、そこに差し込む光が高架橋を照らし地面へ差し込む線と高架橋の手前から向こうへ消失する線が画面の中で直線を構成し、まるで画面を二分割している。差し込む光は反射によってわずかに肌理をあらわし、コンクリートに表情を与える。単純な構造物の反復にすぎない画面が、光の振る舞いによって、私たちが想像するであろう空間から離れて、新しい画像の解釈を生み、その画像に律動を与えている。光学によって目の前の光景をとらえるメディアが、目の前の状況から遊離し、新たな画像の解釈を発している。
撮影の対象が透過性、または反射するものになると、それがさらに複雑に絡み合ってくる。最近は、ガラスを全面に張ったビルがあり、また壁や天井も表面仕上げがされているものあり、またアクリル板や鏡などを多用して、ともすると閉鎖的で小さく見えてしまう空間を少しでも広く見せるために工夫が施されている。
そんな狭い空間に、森下は自分の考える世界を的確に提示する。ペデストリアンデッキか歩道橋のような高さから直線に延びる通りにカメラを向ける。ビルがずっと向こうまで両側にそびえている。歩車道がしゃれたタイルによって分離され、歩道の両側に街灯が立つ。その街灯の片側を中心に、ビルと道路を絶妙に配置していく。いわゆる消失点を中心に、ビル、歩道、車道、ビルのもう片側、そして空というように五つに、消失点を基準に垂線を伸ばすと六分割の位置に大まかに分けることができる。片側のビルは一部がガラス張りになっていて、片方にある雑居ビルの鏡像が反射している。一見すると雑然とした他愛もない町並みなのだが、画像を少しずつ見ていると、立体であったはずの場所が平面化され、その平面が適切に整理されて象限ごとに分割されていく。さらに、その象限がお互いに反響するようになり、また一つの平面としておさまってくる。
別の画像はさらに込み入り、見ているだけで楽しくなってくる。ガラスや鏡面は環境を映し、またそれを透過させる。環境を映し込むことで、自分の視界に入らない環境をまずその画像へ誘い込む。ガラスはその誘い込んだ画像をあらゆる方向へ屈折させ、また別の面へ反響させていく。写真は物質的に平面であるのは自明だが、その限られた平面に画像として残される物質は我々の想像を超えるほど豊穣であり、画像を見ていると、平面にある物質そのものと、規則的な線形、複雑で豊かな物質の重なり合いが、画像を単純に見ている私に、その見方でいいのかを問いかけながら、まずそこで一度立ちどまらせ、画像の組成を確認させ、またその画像へ向かわせるかのような感覚を覚え、画像を解釈することと同時に、見ている側の思考に何度も問いかけてくるような感じである。
さらに、これは展示方法そのものにも及んでくる。直角の壁面を中心線として線対称にプリントを配置している。それを俯瞰しようと中心線の延長上に立つと、両者のプリントが額装されたガラスによって写り込み、お互いに反響し合っている。展示作品がすべて対象にされているのではないが、その展開は、一つ一つのプリントはそれで成立しているが、展示によっても反響し合っている。それを画像によるもので提示しつつ、さらに見る側にある我々にも体験させるという構成になっている。お互いが写り込むことを意図したものではないが、画像によってあるものを自分の感覚となり、頭の中で認識することが体験として引き受けられる。新宿眼科画廊では、画像を直接壁にかけることができず、ワイヤーによって吊されていたのだが、基底面が不安定になり、画像の反響が一定でなくなったため、まさに紙のように浮遊しているようである。自分が見ている経験というものはどこかに定着しているわけではないのだから、まさに自分が記憶にしまっている光景を写真によって具体的に提示したものとも言えはしないだろうか。
これは私の勝手な考えだが、そのことを企図しているからこそ、森下は「倍音の虹」というタイトルを与えたのかもしれない。つまり、見るという行為であれば、それがガラスであるといったような物質を名詞に変換するという作業になってしまうものを、私たちに与えられている聞く行為、聴覚に訴える行為へ意識を促し、そこで画像を見ることで思考を繰り返す。そこには対象を漫然と見ているだけでは得られない、画像によってこそ得られる律動やその響き合うさまを私たちの感覚に問おうとしているような気がする。ところで、森下の画像には水面を撮影したものが何点かあり、風が吹き、波が立ち、規則的な波や水紋が微妙な階調によって表現されているが、それはそのようなリズムや反響を画面の中に暗示させようとしたのかもしれない。多面に反射し屈折する像を制御し、一つの調和した画像へと収斂させる。単純と思われる作業だが、重なり合う状況、曲線があればその滑らかさを平面的に白黒のみの階調で表現するのは決してたやすいことではない。逆に、高架橋の写真のように、白と黒の対照を利用して画像にめり張りをつけ、つぶすわけではないが捨象するものは捨象し、その中で細部にわたって制御することは、明確な企図がなければならないだろう。森下の画像は、私たちにそれを誇張することなく、また過不足なく提示されている。撮影行為にとどまらず、現像における編集作業によって企図や行為は明確に提示される。また、
左手で物の感触を確かめながらも、右手では存在しないもののリアリティを推し量っている。この二つの運動を一つの体にひきうけることで、ゆらぎは生まれる。
ゆらぎはなんら目的をもたない。増幅し、あるいは減衰し、変調しつつ、ただ欲望している。
という会場に掲げられた言葉によってさらに私たちに森下の行為を印象づける。主題として状況を把握する言葉として聴覚へ訴える言葉を用い、画像による視覚によって音や画像によって主題を見る側に印象づけ、それを行為する森下の意図が短く示されている。私たちは写真を視覚によって見るわけではなく、見る側の記憶によって把握しているというプロセスを画像の前で認識しているわけだが、一つの企図を提示するに当たって、さまざまな表現手法を用いて能動的に訴えるのではなく、控え目でありつつも十分に提示されているものと言える。空間を引用することしかできず、またそれが平面的にしかできない写真のメディアとしての制約を誇張したりねじ曲げず、自在に画像を提示できるとき、もしかすると写真は一つの自律したメディアとして成り立つのではないだろうか。