地平線はなぜいくら近づいても遠く離れたままなのだろうか。
その距離は、認識論的な距離、すなわち”見る側”と”見られる側”との間にある関係性の距離とも言える。 森下の作品は、その距離を自覚的に取り出し、我々の前に提示する。
そして、その距離を鑑賞者自らが内側から解体し、それが砕け散る一瞬の煌めきを自覚する仕掛け、 つまり、”現象学的還元”を引き起こす仕掛けこそが森下作品の真骨頂である。
現象学的還元とは、一旦自分の考えを括弧に入れて(判断停止、という)、改めて対象と向き合う手法で、 フッサールが提示した概念である。
例えば、ある写真に写った「空白部分」を見て、それを「丸い」と認識するとする。 しかし、例えば”丸”という言葉を用いずにそれを表現しようとすると、我々はその”何か”に戸惑う。
その”何か”を煌めきや驚き、あるいは新鮮さのようなものとして立ち現わせるのが森下である。
そして、彼はそうした喜びを直接的に表現する。
つまり、彼の作品は、 鑑賞者自身によって、”既存の価値観”を判断停止させてしまう仕掛けに満ちている。 それは、引き裂かれた暗闇かもしれないし、大きな飛沫や、遠くのぼやけた水平線や掠れた陰影や強烈な光の線かもしれない。
それに向き合う時、鑑賞者は、 あらゆる既存の認識態度の変更を迫られ(例えば言葉を奪われ)、 それをどう見ていいかわからないまま、ただそれと向き合う「空っぽな主体」となる。 それは、判断停止した先にある、純粋で空っぽな自己意識の生成である。
何者でもないにも関わらず、”私”という空虚な存在であり続ける主体(判断停止させられた主体)が、 既存の意味や価値判断を解体することで生成した”空白”に向きあい、その新しい煌めきや驚きと踊り戯れる。 様々な空白の像が見せる戯れは、地平線ほど離れた主体と客体の距離を一瞬で解体し、認識論的な距離がゼロになる、つまり、主体と客体が手を取り合う瞬間に見せる輝きでもある。
ページをめくるたび、鑑賞者と作品の間に現象学的な喜びを喚起させる森下の手法は圧巻である。
(哲学家)