千葉に越してきて一ヶ月。掃除と片付けに追われる日々も、ここにきてようやく落ち着きつつある。当初は大量の物に囲まれて呆然としていたが、それも友人の助けで随分と整理され、家の中に秩序がもたらされつつある。
ビルや住宅の密集した都心と打って変わり、畑に囲まれた人家が点在する穏やかな環境は、生まれ育った故郷とよく似ている。遮るものが少ないせいか風も力強い。土煙を巻きあげる春風に煽られながら自転車でホームセンターや生協を行き来するので、都会暮らしに慣れてゆるんだ体が引き締まってきた。
ふと仕事机から目を上げて窓の外を見ると、この辺りを縄張りにしているカラスがとうもろこしの種を掘り返している。今はもう趣味で、自分たちで食べる分だけやってるのよ、と話していた畑の奥さんがせっかく蒔いたのに。でもどうせ鳥に食べられちゃうからダメもとよ、とも言っていたから別にいいのか。カラスも子育てに忙しいようだし。
家が落ち着くのとは対照的に世間は不穏で、4月の末にフライト予定だったドイツ行きは、コロナウイルスの影響で当面延期となったが、これはもしかすると一年間の渡航自体中止になるやもしれず、依然として予断を許さない。この隙に愛知に出向いて暗室作業を進めようにも、移動による感染リスクを考えると上策とは思えなくて、つまり八方塞がりで、またぼーっとカラスを眺めてしまう。
まさか自分が生きている間にこんな、と感じるのは先の震災以来。世界的に大流行するような疫病が発生するとは思ってもみなかった。ひどいテロを知らされても、街を飲み込んだ津波に接しても、埒外の出来事にたじろぐことしかできない自分の軽さよ。
そしてこの混乱のさなかにあって、本邦の行政があまりに愚鈍なことが前景化された。無能で、利権に執心する政治家の顔や声がニュースで流れるたびに吐き気を催すほどの嫌悪感を覚える。怒りすぎて疲れないように注意したい。
作品を制作する際、指標とするものの一つに”絶望と希望の同居”がある。このクソみたいな世にある卑小な存在として、確かな希望を抱き続けること。そんな矛盾を表現することのできる作品を生み出し続ける。そのためにしっかり体力をつけて、もっと気合を入れて掃除をしなくてはな。今日を生きよう。